『兄を持ち運べるサイズに』タイトルの意味とどこまで実話なのかを解説

映画『兄を持ち運べるサイズに』のタイトルの意味と実話性をイメージした、骨壺や記憶を抽象化した横長の抽象背景イラスト
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兄を持ち運べるサイズに――一度聞いたら忘れられないこのタイトルは、いったい何を指しているのでしょうか。火葬後の骨壺の大きさだけでなく、「迷惑ばかりかけてきた兄を、どうやって自分の中で持ち歩ける存在にしていくのか」という心の問題までを含んだ言葉です。本作は、原作エッセイ『兄の終い』という実体験に基づくノンフィクションをもとにしていますが、映画ではそこにフィクションの要素も重ねられています。
この記事では、タイトルに込められた二つの意味と、物語のどこまでが実話でどこからが映画ならではの脚色なのかを整理しながら、現代の「家族のあとしまつ」をどう描いているのかを丁寧に読み解いていきます。

目次

兄を持ち運べるサイズにはどんな物語なのか

まずは、タイトルだけ聞いても内容が想像しづらいこの作品が、どんな映画なのかを整理しておきます。

物語の主人公は、滋賀県でエッセイストとして暮らす理子です。ある晩、見覚えのない番号から電話が鳴り、出てみると宮城県の警察官から、何年も会っていなかった兄の急死を知らされます。兄の遺体を最初に見つけたのは、兄と一緒に暮らしていた中学生の息子・良一でした。

「とにかく、兄のことを片付けなければならない」。そう考えた理子は、兄の元妻・加奈子や、娘の満里奈と合流するために東北へ向かいます。兄の部屋はゴミ屋敷と化し、葬儀の段取り、役所や警察との手続き、残された子どもたちの今後など、現実的な問題がいっぺんに押し寄せてきます。

作品の基本情報を一度まとめると、映画の立ち位置が見えやすくなります。

項目内容
作品名兄を持ち運べるサイズに
公開年2025年
監督・脚本中野量太
原作村井理子『兄の終い』(ノンフィクションエッセイ)
主な出演柴咲コウ、オダギリジョー、満島ひかり、青山姫乃、味元耀大
上映時間約126分
配給カルチュア・パブリッシャーズ

原作の『兄の終い』は、著者・村井理子が、疎遠だった兄の突然の死をきっかけに、遺体の引き取りから葬儀、部屋の片付けに至るまでの数日間を記録したエッセイです。兄への複雑な感情や、家族との距離感が淡々とした筆致で綴られています。

映画版は、この「現実に起きた兄のあとしまつ」を土台にしながら、家族それぞれの視点を広げ、笑いと痛みが混じるドラマとして再構成されています。キャッチコピーにある「世界一迷惑な兄が、突然死んだ。」という一文の通り、スタート地点にあるのは、必ずしも“悲しみ”だけではありません。長年振り回されてきた肉親がいなくなったときに残る、安堵や怒り、空虚さが入り混じった感情が、物語の出発点になっています。

そこから映画は、兄へのうんざりした気持ちと、それでも簡単には切り捨てられない血のつながりを、四日間の慌ただしい時間を通して少しずつ浮かび上がらせていきます。「骨になってしまった兄」と向き合うだけでなく、「自分の人生の中で兄をどう位置づけ直すのか」が、静かに問われていく作品と言えます。

兄を持ち運べるサイズにというタイトルの意味

この作品が強く印象に残る理由のひとつが、独特のタイトルです。監督はインタビューの中で、映画を観終わったあとに「ああ、そういうことか」と腑に落ちる題名にしたかったと語っています。

そもそも「持ち運べるサイズ」とは何を指しているのか。大きく分けると、次の二つの層があります。

指しているもの説明
物理的な意味火葬後の骨壺や遺品どれだけ厄介な人でも、亡くなれば小さな容器や段ボール数箱ほどに収まってしまう、という現実的な感覚
心理的な意味心の中で引き受け直した兄の存在迷惑をかけ続けた肉親を、“恨み”でも“美談”でもない形で、自分の中に持ち歩いていくこと

原作『兄の終い』の帯には、「兄を持ち運べるサイズにしてしまおう」という一文が使われており、映画のタイトルはこの言葉から取られています。生前は手に負えない存在だった兄が、火葬場では骨になり、骨壺に収まり、遺品もいくつかの箱に仕分けされていく。その「巨大だったはずの存在が、物理的にはとても小さくまとまってしまう」感覚に、著者も監督も強い印象を受けています。

一方で、タイトルが本当に照らしているのは、目に見える“サイズ”だけではありません。

理子にとって兄は、長年「関われば面倒な人」でした。金銭トラブル、生活の乱れ、家族への迷惑。生きているあいだの兄は、どう考えても「持ち運びたくない存在」です。しかし、死の知らせを受け、遺体の引き取りや葬儀、部屋の片付けを進めるうちに、理子は兄の知らなかった一面や、兄が家族と共に過ごしてきた時間に触れていきます。

映画版では、理子の心の中に兄の姿が現れ、会話を交わすような演出も加えられています。現実にはもう存在しない兄が、理子の中ではまだ“フルサイズ”で居座っている。その存在を、「自分がこれから生きていくうえで、無理なく持ち歩ける大きさ」にまで、なんとか縮めていく過程こそが、タイトルの核心にあるイメージだと考えられます。

つまり、「兄を持ち運べるサイズに」という言葉には、

  • 骨壺や遺品という具体的な“モノ”のサイズ
  • 憎んだり、美化したりするのではなく、ほどよい大きさの思い出として引き受け直す“心の余白”のサイズ

この二つを同時に扱おうとする意図があります。
単に「兄の葬儀の話」ではなく、「厄介だった肉親の死とどう折り合いをつけて、自分のこれからの人生を続けていくのか」まで踏み込むためのタイトルになっている、と言えるでしょう。

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『兄を持ち運べるサイズに』で見せる静かな佇まいと、これまでの代表作での表情を見比べると、同じ俳優でも役によってまったく違う“温度”を持っていることがよく分かります。

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原作『兄の終い』に描かれた実話の部分

映画の土台になっているのは、翻訳者・エッセイストの村井理子が実体験をもとに綴ったノンフィクションエッセイ『兄の終い』です。舞台は現実の日本、実在の地名と年号がはっきり示されており、「実話であること」が最初から明示されています。

物語は、琵琶湖のほとりで家族と暮らしている著者のもとに、宮城県塩釜警察署から電話がかかってくる場面から始まります。時期は2019年10月末。宮城県多賀城市内のアパートで、長く疎遠だった兄が亡くなっているのが発見されたという知らせでした。第一発見者は、兄と二人で暮らしていた小学生の息子・良一です。

著者は、兄の元妻・加奈子やその娘の満里奈と協力しながら、兄の「終い方」を引き受けることになります。遺体の引き取り、火葬、遺品整理、ゴミ屋敷と化した部屋の片付け、残された良一の今後の段取り、費用のやりくりまで、すべてが現実の手続きとして克明に描かれます。

原作の構成は、「プロローグ+5日間+エピローグ」という、日記のようなかたちです。目次には具体的な日付と場所が明記されています。

パート見出しに書かれていること主な出来事
プロローグ2019年10月30日 水曜日滋賀の自宅で電話を受け、兄の訃報を知らされる。宮城へ向かう決意を固める。
DAY 1宮城県塩釜市・塩釜警察署遺体と対面し、死亡確認や手続きを行う。兄の元妻・加奈子や子どもたちと合流する。
DAY 2宮城県多賀城市兄と良一が暮らしていたアパートを初めて訪ね、ゴミ屋敷化した部屋の現実と向き合う。
DAY 3宮城県仙台市火葬や役所関係の手続きに奔走しつつ、良一の今後について具体的な選択を迫られる。
DAY 4三週間後、多賀城市再び宮城を訪れ、残された荷物や部屋の処理を進める。時間をおいて見えるものが変わり始める。
DAY 5東京東京での手続きや後始末を済ませ、兄の人生と自分との関係を言葉にしようとする。
エピローグ兄をめぐるダイアローグ兄との過去を振り返りながら、「兄の終い」を通して得た感情や考えを整理する。

出版社や書店の紹介文でも、「兄の急死の後始末をした5日間の記録」「怒涛の5日間の実話」といった表現が繰り返し使われており、創作ではなくノンフィクションであることが強調されています。

原作の大きな特徴は、兄への感情が最初から最後まで揺れ続けている点です。

  • 子どもの頃は頭が良く、手先も器用でモテる兄
  • 大人になるにつれ仕事や結婚に失敗し、生活保護を受けるシングルファーザーとなった兄
  • ゴミ屋敷で酒に溺れ、やがて孤独死した兄

著者は、こうした兄の変化を見続けてきた妹として、怒りや軽蔑、諦めと、「それでも完全には嫌いきれない」という感情の両方を抱えています。

原作に描かれている「本当にあったこと」は、次のような要素に集約できます。

  • 深夜の電話で知らされる、遠く離れた土地での孤独死
  • 遺体の引き取り、火葬、役所・警察・児童相談所との具体的なやりとり
  • ゴミ屋敷の片付けや車の処分、百数十万円単位の出費といった、とても生々しい現実
  • 兄の元妻や子どもたちと共に作業を進めるなかで浮かび上がる、兄の知らなかった顔

これらはすべて、実在の地名・日付・金額とともに記録されており、映画版もこの骨格を忠実に踏まえた上で物語が組み立てられています。

兄を持ち運べるサイズにはどこまで実話なのか

映画版『兄を持ち運べるサイズに』は、原作の事実をそのまま並べた映像化ではなく、「実話を基にしたドラマ」として作られています。このバランスについて、監督の中野量太自身が、複数のイベントやインタビューでかなり具体的に語っています。

脚本の内訳は、

  • 原作『兄の終い』からのエピソードが約6割
  • 原作者・村井理子への追加取材から生まれた話が約2割
  • 監督自身のオリジナル要素が約2割

という比率だと、監督がはっきり明言しています。完成した脚本は「原作と半分近く違う」とも述べており、実話に忠実な部分と、映画ならではの脚色が意図的に混ざった構成になっています。

「実話に近い部分」と「フィクションの比重が大きい部分」を整理すると、次のようなイメージになります。

領域実話に近い部分映画的な脚色が強い部分
出来事の骨格塩釜警察署からの訃報、宮城での遺体の引き取り、火葬、ゴミ屋敷となったアパートの片付け、良一の今後をどうするかという現実的な問題などは、原作に書かれている流れと重なっている時系列の整理や、4日間の物語としての見せ方は、観客にとって分かりやすい起伏が出るように再構成されている
時間のスパン原作は「プロローグ+5つのDAY+エピローグ」で、実際には3週間の間を挟みつつも“怒涛の5日間”として記録されている映画は「家族のてんてこまいな4日間」としてまとめられ、観客が追いやすい時間軸に圧縮されている
人物関係妹・元妻・娘・息子という組み合わせで、疎遠だった兄の後始末に向き合う構図自体は、原作の人間関係に基づいている各人物のセリフや、ぶつかり合い方、ユーモラスな掛け合いのテンポなどは、中野監督の作風に合わせて膨らませてある
兄の存在感「迷惑でだらしないが、完全には憎みきれない兄」という人物像は、原作に描かれている兄のイメージを踏まえている映画では、亡くなったはずの兄が理子の前に“幻”のように現れ、会話を交わす演出が繰り返される。これは観客に心情を伝えるための映画独自の表現で、原作にはない要素
タイトルの由来原作中に出てくる「兄を持ち運べるサイズにしてしまおう」というフレーズが、そのまま映画のタイトルの源になっている骨壺や遺品だけでなく、“心の中の兄の大きさが変わっていく”様子を、ラストまでの流れ全体で視覚的・感情的に描き切るのは映画ならではの役割

映画の公式な紹介でも、「実話を基に描かれた家族たちのてんてこまいな4日間」「実話の映画化」といった表現が繰り返し使われています。一方で、監督やキャストのコメントでは、「兄が画面に現れる描写」「死者との対話のような感覚」が作品の見どころとして語られており、ここはフィクションとして積極的に取り入れられた部分です。

まとめると、『兄を持ち運べるサイズに』は次のような構造になっています。

  • 原作『兄の終い』に書かれた、宮城と多賀城での「怒涛の5日間」の出来事
  • その後も含めた著者の実体験という“事実の地盤”

をそのまま土台にしつつ、

  • 兄が幻のように現れる演出
  • 4日間という時間枠
  • 各キャラクターの感情のぶつかり合いを、観客に伝わる形で際立たせる脚色

を重ねることで、「どこまでが本当にあったことなのか」「タイトルが何を意味しているのか」を、フィクションとノンフィクションの境目の上で丁寧に浮かび上がらせている作品と言えます。

タイトルから見える現代の家族と「あとしまつ」

ここまで見てきたように、『兄を持ち運べるサイズに』というタイトルは、単にインパクト重視の言葉遊びではありません。火葬場で小さな骨壺に収まる兄の姿と、心の中でようやく「持ち歩ける大きさ」になっていく兄の存在。その両方を見つめる視線が込められています。

このタイトルが今の観客に強く響くのは、多くの人がどこかで「家族のあとしまつ」に向き合う予感を抱えているからではないでしょうか。
高齢の親、疎遠になったきょうだい、距離を置いてきた親族。いつか必ず終わりが来ると分かっていながら、そのとき自分が何を引き受けるのか、どこまで背負うのかを、はっきり決めきれずにいる人は少なくありません。

作品が描くのは、「血のつながりだからといって、何もかも美しく収まるわけではない」という冷めた現実です。
兄は最後まで立派な人にはなりきれませんし、理子の中からも、怒りや諦めは簡単には消えません。それでも、骨壺や遺品を前にして、兄の人生と自分の人生の境界線を引き直していく過程が、静かに積み重ねられていきます。

読後・鑑賞後に残るのは、「家族なんだから許さなければならない」という押しつけではなく、「もうこれ以上大きくは背負えないけれど、このくらいのサイズなら、自分の中に置いておけるかもしれない」という感覚です。

整理すると、タイトルが投げかけている問いは、次のようなものだと言えます。

視点投げかけられている問い
残された者として迷惑ばかりかけた家族を、死後にどう扱うのか。すべてを帳消しにするのでもなく、憎み続けるのでもなく、どんな距離感で記憶していくのか。
生きている者として自分がいつか誰かに“持ち運べるサイズ”にされるとしたら、どんな形で記憶されたいのか。今の生き方は、そのイメージと結びついているか。
社会の一員として高齢化や孤立死が身近になっている時代に、「家族のあとしまつ」を個人だけの問題として押しつけていないか。

映画のラストに至るまで、作品は決して大きな教訓を語りません。兄の人生も、理子たちの選択も、「正解だったのかどうか」ははっきり示されないままです。ただ、「あの兄を、ここまでのサイズなら持ち運べるかもしれない」と思える地点までたどり着いたことだけが、静かな救いとして残ります。

この感覚は、誰かを見送った経験がある人にはもちろん、これから親やきょうだいの老いと向き合う世代にも重なっていきます。タイトルを思い返したときに、自分の家族の顔や、かつて距離を置いた誰かの姿がふと浮かぶとしたら、そのとき初めて、この言葉は観る人それぞれのものになるのかもしれません。

「兄を持ち運べるサイズに」という少し不穏で不思議な題名は、そうした個人的な記憶と結びついた瞬間に、ただの映画タイトルから、自分自身の生き方や家族との距離を考えるためのフレーズへと変わっていきます。作品が題名に託したのは、その変化を静かに促す力なのだと思います。

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この記事を書いた人

言葉の余白にひそむ物語をすくいあげ、
そっと文章にして届けています。

偉人の生き方や作品の奥にある静かな光をたどりながら、
読む人の心がふっとほどけるような一文を探しています。

旅先で見つけた景色や、小さな気づきが、
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